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創造性のために

「あるべき自分」みたいな、自分の理想像を強く持ちすぎると却って創造性や自律性を失ってしまう。つまり、「創造的でありたい」と念じれば念じるほど創造性からは遠ざかる。
皮肉なものである。

求めるべきは理想像では無く、寧ろ、より明確な自己像であると思う。
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理解と共感

僕は共感という言葉をよく知らなかった。
それは単なる同調…付和雷同の態度と同義と思っていた。

友人の言によると、共感とは「(他者の意見に対し)自分も心から同意する」ことだそうだ。また最近読んだ岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』によると、共感とは「他者と同じ種類の心、同じ種類の人生を持っていたらと考えること」であり、その技術とのことである。フロムは「愛は技術だ」と言ったが、アドラーは「共感も技術だ」というわけだ。

共感とは単なる浅ましい同調などでは無く、ちゃんと自らの意志をもって臨む行為なのだ。自らの理解・感覚に基づき他者の状況について思いを巡らし、心から同意するプロセスこそ共感である。

僕は上で理解という語を用いたが、僕は単に理解を示したつもりが「それは共感だ」と指摘された事が有った。僕は初めこれが解せなかった。しかし、『幸せになる勇気』の議論によるとそもそも共感は理解に基づく行為なのだ。共感∈理解と云う所か。

自身が理解出来る地平が広がれば、共感出来る射程も広がる。
これは興味深い発見かも知れない。

自己責任の行き着く果て

“助けて”と言えない若年層、内面化する自己責任回路を告発したクローズアップ現代終了、そして先進国で日本のみ15~39歳死因トップの深刻な自殺、20~30歳代の自殺率引き上げる「勤務問題」
http://editor.fem.jp/blog/?p=1835

──貧困問題をどうしていくかという「問い」に対しても、「自己責任論」というのは、非常に便利な理屈だてです。その「問い」を貧困当事者の自分の中に閉じ込める効果がある。貧困当事者が「自分が悪いんだ」と思ってくれれば、企業や社会からどんなにひどい扱いを受けても、「自分の能力や努力が足らないからこんな扱いを受けるんだ」と自分自身に返ってくるだけで、自分の外=社会には出て来ないのです。結果的に起こるのは、食べていけなくなればなるほど自分を責める、困窮すればするほど「こんなになってしまう自分はなんてダメな奴なんだ」と思う人が増えていく。こうした「自己責任回路」が社会的にできあがっている。この貧困当事者の「自己責任回路」は、日本において様々な運動が低調であることの大きな原因としてあると私は思っています。また、「自己責任回路」は、11年連続で3万人を超える異常な数の自殺が起こり続けている原因だろうとも考えています。──

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僕も会社の研修において、こういう自己責任的な思考パターンが“良いもの”として教え込まされた。仕事上何らかの問題が発覚した際に、とりあえず自分の責任と捉えて行動を起こすのが社会人としての在り方ですよ、というようなものであったと記憶している。

僕は当初からこの考え方が気に入らなかったし、精神的に重荷になるならむしろ害悪であるとすら思う。
そもそも客観性が無い。まずは責任の分担を明確化すべきだ。その上で、問題の責任が自分に在った場合は必要な対応を行うまでである。

「努力すれば報われる」なんて大嘘だ。全く実にならない無用な努力なんて山ほどあるし、逆に苦も無く成功してしまう場合だってある。
社会とは本質的にカオスなのだ。
ラッキーな成功者は嬉々として自分の努力を語るかも知れない。
もちろんその努力は成功に寄与しているのだろうが、同時にそれは“たまたま”の要素も多く含んでいるものである。

報われないからと言って、それを安易に自分の責任と帰結するのは余りに短絡的である。会社が悪い、社会が悪い場合も往々にしてある。
まずは状況を客観的に観察してみること。
環境が悪ければ努力は徒労に終わる。別の糸口を探すべきなのだ。

「知性」について

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語彙と感情

僕は“言葉”が苦手だった。
あるいは今もそうかも知れない。

僕は学生の頃は数学が得意で理系に進んだ典型的なタイプだったから、国語や言葉に対する漠然とした苦手意識を持っていたのだと思う。
(学校で習う)数学の楽な点は、ある一定の法則さえ覚えておけば、あとはその応用だけで済んでしまうことである。
漢字や熟語の暗記など、非効率的だと思えてしまう。

先日、POPSの歌詞を解釈するある会合に参加してきた。
歌詞とは詩である。高度なものは、レトリックを駆使し比喩に比喩を重ねたような繊細な表現が為される。
こういうものは、僕が苦手としていたものの最たるものであって、だからこそ今新ためて学んでみようと思った。

例えば良い歌詞を書く技術、という観点で考えてみると、上記のレトリックとあとは多彩な語彙であると僕は考える。
豊富な語彙とレトリックの技術があって初めて、表現に深みのある詩が生まれる。

話は一転するが、安富歩『ハラスメントは連鎖する』という新書を図書館で借りて読んでいる。
こちらの4章の内言語の話が興味深い。
内言語とは次のようなものだ。

内言語…本を読んだりものを考えたりするときに用いられる言語
⇔外言語…実際に口に出して発音される言語

さて、この内言語について面白いと思ったのが次の一説である。

──興味深いのは、内言語として感情の名前のレパートリーを前もってたくさんもっていた方が、より精神的に成熟しやすいと指摘されていることである。──(pp.117)

以上がどこで指摘されているのかは判らないが、非常に興味深いと思う。自分の感情を適切に表現する語彙を持ち合わせる事で、落ち着いてその感情に対処出来るのだと言えるのではないだろうか。

事ある毎に感情的になるのはスマートな生き方では無い。
かと言って、自分の感情を押し殺すような生き方は健康的とは思えない。自分の感情を表現できる語彙を身につけることが出来れば、感情に溢れ、かつ感情的にならない生き方が可能なのでは無いだろうか。

今の僕は、自分の“言葉”を着実に身につけていきたいと考えている。

Competition

competition──一般には「競争」などと訳される英単語である。
しかし、ものの本によるとこの語はラテン語の「com(共に)」+「petere(追求する)」に由来するそうである。
すなわち、この語には元来「勝ち負け」という要素は含まれない。

競争というと、この単語はよくスポーツと結び付けられる。
僕はスポーツが苦手だったが、これには明確な2つの理由があった。
「負けず嫌いであること」「運動音痴であること」がそれだ。
つまり、「スポーツすると負けてしまうから苦手」という論理である。

一方で、余り勝ち負けが重視されないスポーツは昔から好きだ。
例えば登山・水泳・スキーなどがこれに当て嵌まる。
これらの共通点を考えると、身体を動かして遊んでゆく過程で自らの身体感覚の向上を実感する、という感覚を味わえる事が挙げられる。
これは喜ばしい瞬間である。

この事を踏まえると、便宜上勝ち負けがつけられるスポーツにおいても、原義的なcompetitionの感覚を以て臨めば、それは僕としても喜ばしいものになると考えられる。今年の初めに、知り合いで集ってテニスを嗜んだが、自分の認識が改まった為かとても楽しい時間となった。

この際に重要となるのが、原義的なcompetitionの感覚を全員が共有していること。勝ち負けに拘る人間が多いとこの繊細な感覚は雲散霧消してしまう。しかし、「勝ち組・負け組」などという言葉が持て囃されている事からして、現実には勝ち負けに拘る人間が多いようだ。
何とも悩ましい事だと思う。

所信表明?

長らく放置していたこちらのブログサイトを活用してみようかと思う。
また止めてしまうかも知れないが…その時はその時だ。

ブログの内容について、クルマやバイクネタはみんカラで書いているので、こちらではそれとは別の内容で書いていく。
主に、読書ネタやお散歩ネタになるのではと思う。

まとまった文章を書くためには、まず頭の中をまとめる必要がある。
つまり「ブログに書く」という行為は、思考の整理である。
僕は考え事が好きだが、考えてばかりいてもその内容はすぐ散逸してしまう。故に、何らかの形での整理が必要なのだ。

基本的には備忘録ですんで、暇つぶしにでも眺めてやって下さいまし。

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